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マイライフ・インタビュー

プロレスラー・企業経営者

「私は、施設に入ってプロの介護を受けたい。子どもは、自分のことで手一杯のはず。たまに、会いにきてくれることが、自分にとっての『最高の介護』ですよ」

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蝶野正洋

1963年9月17日生まれ。2歳までアメリカ・ワシントン州シアトルで過ごし、その後は、東京都三鷹市で育つ。84年に新日本プロレスへ入団。同年、武藤敬司戦でデビューした。91年には、第1回G1クライマックスで優勝し、98年にはIWGPヘビー級王座を獲得する。99年にオリジナルブランド、「アリストトリスト」を設立。フリーに転身後の2014年には、AEDの普及・啓発を目的とした「一般社団法人ニューワールドアワーズ(NWH)スポーツ救命協会」を組織する。主著に、『生涯現役という生き方 武藤敬司×蝶野正洋』(KADOKAWA)。

「黒のカリスマ」として、プロレスの世界だけでなく、一般の女性にまで広く知られる存在の蝶野正洋さん。現在はAEDの普及・啓発活動を行う「ニューワールドアワーズ(NWH)スポーツ救命協会」を組織するなど、救急や防災の活動にも力を入れています。そんな蝶野さんに、「社会貢献活動への思い」「過去の負傷経験と克服法」「アスリートのセカンド・キャリアの築き方」「ご自身の考える理想の介護」などについて聞きました。

蝶野正洋

 

「同期だった橋本選手、そして、三沢社長の死にはショックを受けました。けがは断じて勲章ではない。どれほど高い志があってキャリアを積んでも、命を失っては、何の意味もないのです」

 

 

第2の人生を救命救急に捧げる「本当の理由」

 

 黒の衣装に身を包み、「黒のカリスマ」とも呼ばれたプロレスラーの蝶野正洋さん。現在は、テレビやイベントで活動するほか、奥様のマルティナさんと創設させたファッションブランド、「アリストトリスト」を展開する会社の代表取締役、「ニューワールドアワーズ(NWH)スポーツ救命協会」の代表理事も担われています。
 特に、NWHはAEDの普及・啓発を通じて救命活動を推進するための団体で、蝶野さんご自身が発起人となって2014年に設立されました。レスラーとして頂点を極めた蝶野さんが、第2の人生を救命救急に捧げる理由は何なのでしょうか。
 「現役時代は『誰かの命を救いたい』などと、みじんも考えたことがありませんでした。プロレスの世界では、誰かのけがは、空いたポジションを狙う絶好のチャンス。リング上に『他者を気遣う優しさ』など存在しないのです」
 危険と隣り合わせでありながら、すべては自己責任。業界としてのサポートなど、なくて当たり前な環境でした。

 

 

「1人でも多くの人に、AEDを使えば、助かる命があることを知ってほしい」

 

 しかし蝶野さんは、ある出来事から、そのような現状に疑問を感じるようになりました。
 それは、「闘魂三銃士」としてともに戦った橋本真也選手(享年40歳)、そして、プロレス団体NOAHの三沢光晴社長(享年46歳)の死です。
 「同期だったブッチャー(橋本選手)、そして、三沢社長の死にはショックを受けました。けがは断じて、勲章などではない。どれほど高い志があってキャリアを積んでも、命を失っては、何の意味もないのです」
 リングでの事故が増えている現状に心を痛めた蝶野さんは、所属する新日本プロレスを中心に選手の健康を守ろうと動き始めます。
 「まずは、トレーナー同士の横のつながりを活用して、選手の健康について一定の基準を保とうと試みました」
 選手の健康状態を管理する―。一見すると歓迎すべき活動のようですが、当時の業界の反応は冷やかなものでした。
 「有名な選手になればなるほど、必ずといってよいほど、どこかに故障を抱えています。そこに健康診断などを行えば、ほとんどが出場不可能と判断されかねない。それでは経営が成り立たないと、こぞって反対されてしまったのです」
 こうして目標がとん挫したまま、10年、新日本との契約が終了した蝶野さんは、団体を離れてフリーとなります。
 「結局、何もできずに団体を去って、後悔がくすぶっていました」
 その後もフリーの立場で何ができるかを模索していた時、東京消防庁のAED講習を受けるチャンスがありました。そこで広報担当者から、「啓発活動を手伝って欲しい」と要請された蝶野さんは、即答で依頼を引き受けます。
 「AEDを使えば、助かる命があることを、1人でも多くの人に知ってほしいと思ったのです」

 

 

サウナ室からなかなか出てこない猪木さん。様子をうかがうと……。

 

 「自分を育ててくれた社会やプロレス業界に恩返しをしたい」―。いつの頃からか、そう考えるようになったのは、第2の父と慕う、アントニオ猪木さんの影響がありました。
 「猪木さんは純粋に、社会のためになりたいという動機で動く人。それは付き人として日夜をともにした、私自身が一番よく知っています」
 こういって、1つのエピソードを披露してくれました。
 「ある時、地方巡業での試合後、宿泊先のサウナに行きました。そこで、私達がタオルを持って猪木さんを待っていると、洗い場が汚れていることに気付いた猪木さんは、手早く周囲を掃除し、イスや備品をきれいに並べ直してから出てきたのです。客は私達だけで、見ている人は誰もいません。ですが、後から使う人のことを考えて、無意識にそうしたのです」
 付き人生活を通じて、猪木さんから見えない努力や他人への気遣いなど、人生の軸になる姿勢を多く学んだと話します。

 

 

「事を成すためであれば、あえて、売名の批判を受け入れる」

 

 NWHを通じて現在は、各地域の消防団の活動を応援しています。
 「消防団は歴史が古く、知れば知るほど地域にとって欠かせない、重要な役割を担っていることに驚かされます」
 一方で、その姿勢に歯がゆい思いをすることも。
 「消防団の人達は、自分達を黒子として、表に出ることを潔しとしません。ですが、地域ぐるみで、みんなで防災に取り組むためには、どんどんPRをして活動を知らせることこそ重要ではないでしょうか」
 自身のファッションブランドを組織し、ビジネス系の雑誌で自己プロデュースについて語ることもある蝶野さんは、「事を成し遂げるため、あえて売名をする」ことの重要性を説きます。
 「レスラーでも、才能はあるのに日が当たらない選手がいる。状況を改善させるには、いかに知ってもらうかが大切です。これは、介護の分野も同じではないでしょうか。まずは、多くの方に存在を知ってもらうことが、問題解決の第一歩になる。だから、私は、広報活動の依頼があった時は、『自分でよければいくらでも客寄せパンダになりますよ』とお伝えしているのです」

 

 

蝶野正洋

 

「けが、休むことが教えてくれることもある。改めて、妻への感謝の気持ちや自分がどうすれば、社会に貢献できるかを考えました」

 

 

「けがなく、万全な状態でリングに上がったことなど数えるほどしかない」

 

 いくつものけがを経験してきた蝶野さんに、ご自身の身体との向合い方についてもうかがいました。
 「思えば、身体にけがを抱えず、万全な状態でリングに上がったことなんて数えるほどしかないのです。一番つらかったのは、頸椎椎間板(けいついついかんばん)ヘルニアです。けがは、全身にありますが、首は、他の場所とはまったく異なります。神経にも触れるため夜も眠れず、精神的にもとても不安定になります。頸部がとれてしまうのではないかと思うくらいの激痛だったのです」
 最初に首を負傷したのは、新弟子時代。ワンシリーズ休場するけがを負いますが、精密検査を受けることもなくリングへ復帰しました。その後も海外遠征、新日本のリーグ戦であるG1トーナメント優勝など、何度となく強い痛みが襲ってもその都度、追い払いながらリングに立ち続けました。
 ところが、レスラーとしての絶頂を極めて行った1998年9月、IWGPヘビー級のチャンピオンベルトを手にしたその後、最大の不運が襲いかかりました。
 「シリーズ開幕戦で最初の受け身を取ったら、今まで経験したことのないしびれが全身を襲いました。恐怖を押し殺して、そのまま試合を継続したら、シリーズ前半の試合終了後、タイツを脱ぐ際にダーッと小便を漏らしてしまったのです。四肢麻痺でした」
 すぐに精密検査を受けると、「本来であれば、すでに下半身不随の重症だ」と告げられます。
 「即、手術が必要といわれました。手術すれば、試合を続けられますか、とたずねると、そういう次元の問題ではないと」
 手術することは、即、現役引退を意味していました。何としても、それは避けたかった蝶野さんは、アメリカ、ドイツと頸椎治療の権威を訪ね歩きます。
 「結果はどこも同じ。当時の医療では、骨移植をして、そのまま即引退との診断でした」
 そんな時、知人から紹介されて藁をもつかむ思いで行ったのが、岐阜県にある若手の整体師による治療院です。
 「私は若い頃、整体によってけがを悪化させてしまった苦い経験があるので整体は避けていました。ですが、その先生は数時間かけてゆっくりと優しく背骨を調整する治療方法で、1か月もすると驚いたことにしびれが消えてきたのです」
 その後、余暇は、すべて治療にあてるというストイックな生活を送り、頸椎の大けがから復活して、約10 年間、現役を続行することができました。
 「けがで休場して思ったのは、プロレスだけが人生じゃないということ。人生を振り返る時間ができたことで、改めて妻への感謝や自分にできる社会貢献活動がどういうものかと考えることができました」

 

 

「理想の介護とは?」の問いに熟考した蝶野さん。そこで口にした答えは……。

 

 最後に、ご自身が考える理想の介護についてうかがうと、しばらく迷った後、蝶野さんが答えたのは……。
 「私は施設に入って、プロの介護を受けたいです。なぜなら、私自身の過去を振り返ると、20歳でプロレスの世界へ飛び込み、頭の中は自分の人生、生活のことで一杯でした。そこに親のことを顧みる余裕は、残念ながらありませんでした。私の子ども達だって、恐らく同じでしょう。日々のケアは、プロに任せて、子ども達は会いに来て元気な顔を見せてくれたら、それが、自分にとっての『最高の介護』だと思います」

2019.06 あいらいふ 掲載 掲載

取材: 横井かずえ / 撮影: 近藤豊

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