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マイライフ・インタビュー

参議院議員 三原じゅん子さん

「父の介護、ガンの克服。辛い思いを私だけの 経験にするのでなく、他の方のために役立てたい。 だから、私は政治家の道に進むことを選んだのです」

インタビュイー写真

三原じゅん子

1964年9月13日東京都出身。7歳で東京宝映テレビ・劇団フジに入団し、『3年B組金八先生』でブレイク。80年には歌手デビューし、シングル、『セクシー・ナイト』は55万枚を超えるヒットを記録する。子宮頸がんを患った経験から、医療や介護問題への関心を深め、2010年7月に、第22回参議院議員通常選挙・全国比例区にて初当選。16年7月には、第24回参議院議員通常選挙・神奈川選挙区にて2期目の当選。自由民主党女性局長(3期目)、自由民主党神奈川県参議院選挙区第四支部長、参議院内閣委員会委員、参議院消費者問題に関する特別委員会理事、参議院行政監視委員会委員、自由民主党厚生労働部会副部会長などを務める。主著に、『生きたい』(講談社)。

「二足のわらじを履けるほど、国会議員の仕事を甘くは考えていない」。2010年7月の参議院全国比例区での初当選と同時に芸能界を引退して、政治家となった三原じゅん子さん。今回は、「ご自身の子宮頸がんとの闘い」、そして、「20年にわたるお父様の在宅での介護」の話題を中心にお話を聞きました。

 

「介護に正解はない。だから、1つの方法を国民に押し付けるのでなく、多様な選択肢から選べる社会にしたい」

 

 

借金取りに「何でも持って行け」と啖呵をきった母親

 

 三原さんのお父様、伸巨(のぶお)さんは、今からおよそ25年前に63歳で脳梗塞を発症。身体に麻痺が残った状態で、20年近くにわたる在宅介護の生活になりました。

「父は、もともと病弱な人でした。メッキ工場を経営していましたが、私が5歳のときに会社が倒産。自宅も、東京から千葉に引っ越しました。引っ越してからの父は、お酒を飲むことが増え、人とも会わず、ほとんど家から出ることがありませんでした」

 病弱で事業に失敗してからは気落ちすることの多かった伸巨さんとは正反対に、お母様の一姫(かずき)さんは、困難にも正面から立ち向かう、正義感の強い性格でした。幼心に印象に残っているのは、昼夜問わず家にやってくる借金取りに、「何でも持って行け」と啖呵を切った母親の背中です。

「母は、いくつも仕事を掛け持ちしながら、私と兄を育ててくれました。身体を張って借金取りからも守ってくれた。感謝しかありません」

 

 

デイサービスを拒否した父親。しかし、1回だけ試しにと行くと……

 

 働き者だった一姫さんは、三原さんが芸能界で活動するようになっても、仕事を辞めようとはしませんでした。ところが、伸巨さんの脳梗塞発症後は、在宅介護の負担までもが一姫さんの肩に重くのしかかってきたのです。

「父は、とにかく母以外の人の手を借りることを嫌う人でした。訪問サービスを利用しようとしても拒否し、デイサービスに誘っても行きたがらない。私もドラマや舞台の仕事で忙しく、いつもそばにいるわけにはいきません。その分、母の負担は大きかったと思います」

 そんな状態が10年以上続いて伸巨さんの容態は徐々に悪化、一姫さんの負担は増す一方でした。

「最初は、自宅に手すりをつけて何とか伝い歩きができましたが、次第に寝たきりの日が増えていきました。母は父の介護で、一息つく暇もない。そこで、家族全員で父を説得し、『1回だけ試しに』と、まずはデイサービスに行くことから始めました」

 ところが、渋々、デイサービスに行った伸巨さんは、家族の予想に反して満面の笑みを浮かべて帰って来たのです。

「晴々した顔で、『案外、楽しいものだな』と。デイサービスで他の利用者と会話したり、スタッフにケアされるのが、とても新鮮だったようです。母も私も、そんな父の様子を見てほっと胸をなでおろしました。『さすが、プロの力は違う』と感心したのを覚えています」

 

 

「まずは施設に慣れること」。あえて、父の日の訪問を取りやめる

 

 この出来事をきっかけに、少しずつ訪問介護なども受け入れるようになっていきました。しかし、80歳になった頃に認知症を発症。身体麻痺と認知症が重なっては、とても在宅介護はできず、2014年に小規模多機能施設へ入所します。

 三原さんは、このときの心情を「もう十分頑張ったよ、おふくろさん」とブログに綴っています。また、伸巨さんに対しては、「まずは、施設に慣れることが大切と思って父の日も会いに行けませんでした」と複雑な心境を語っています。

 入所後まもなく、伸巨さんは他界。それまで仕事と介護に奔走していた一姫さんは、突然できた空白を埋めることができずにうつ状態に陥りました。

「父が亡くなり、母は無気力になりました。あんなに頑張り屋だったのに、家でボーっとする日々。最終的に、本人の希望で2人の姉が住む故郷の栃木県へ帰りました。すると故郷の空気に触れて元気が出たのか、しばらくして『私、仕事をしたいんだけど、どう思う?』と。家にいるとふけこむから働きたいというのです。驚きましたよ」

76歳になる一姫さんは、今も故郷で週に3回働き、お姉様達と旅行をするなど元気に過ごしていらっしゃいます。

 

 

 

 

「がんになり、私の人生の第1幕は終わりました。
生き残った自分には、使命があると信じています。女性と子ども達、高齢者を守るという使命のためなら怖いものは何もありません」

 

 

2008年。人間ドッグで見つかった子宮頸がん

 

 7歳で劇団に入団し、『3年B組金八先生』でブレイク。カーレーサーとしても活動するなど順調に芸能人生を築いてきた三原さんに、ターニングポイントが訪れたのは2008年です。体調不良を心配した周囲にすすめられ、受診した人間ドックで子宮頸がんが見つかります。

「結果を聞いて、とっさに思い浮かんだのは、母が、がんになったときのこと。母は私が中学生の頃に、甲状腺がんで化学療法を受けました。副作用で顔が真っ黒になり、髪も抜け落ちた姿を思い出し、『私に耐えられるだろうか』と不安が込み上げました」

 過去に2度の流産を経験し、わが子を抱くことを強く希望していた三原さんは、子宮を摘出することへの抵抗感が強くありました。しかし、手術は避けることができず、かろうじて卵巣を残すことができたのみ。癒着がひどく、7時間にもおよぶ大手術でした。術後にベッドで1人横たわったとき、大病を経験したからこそ感じることのできる無垢な感情に包まれたと語ります。

「この経験を、ただ辛い思いだけで終わらせたくない。いつか『この幸せを得るために、あの試練があったのだな』と思えるようになりたい。強くそう感じました」

 

 

「周囲に必要とされることが生きる力になる」

 

 自身の闘病、そして伸巨さんの在宅介護を通じて三原さんが気づいたのは、「周囲に必要とされることが、生きる力になる」ということ。高齢で日常生活に不自由が出てきたとしても、あえて親に甘える、頼ることを通じて「あなたがいないとダメなのです」というメッセージを伝えることが大切だと訴えます。

「私の自慢の1つに、周囲にいる顔ぶれが変わらないということがあります。例えば、今、秘書をしている武原美佐さんは、かつて芸能人として所属していた事務所の社長だった人。もう30年の付き合いです。入院中、その彼女が次から次へと新しい台本を持ってきて、『仕事が待ってるわよ。はやく治して』というのです。鬼と思いましたが、私の性格を知っているからこそ、励ましてくれたのだと今ならわかります。必要としてくれる人がいるから、早く元気になろうという気力がわいてきました」

 

 

「小手先の策では難しい。超高齢社会で必要なのは未病対策」

 

 子宮頸がんで人生の第1幕は終わり、次なる第2幕として「人のために生きる」ことを決意した三原さん。闘病生活を支えてくれたがんサバイバーの仲間の後押しもあり、政治家としての道を歩み始めました。

 議員になった現在は、自身の闘病経験を活かし、医療や介護問題に取り組んでいます。そうした活動の中で、今、最も大切な課題の1つとして「未病の対策」を掲げます。

「若い人が減る一方で、介護を必要とする人は増え続けています。ロボット技術や外国人労働者など、小手先の策を講じてもとても対応しきれない。それならば、一人ひとりが病気や介護になる手前で自分の身体をケアする『未病の対策』に真剣に取り組み、介護を必要とする人を1人でも増やさない心がけが重要なのです」

 

 

「働き方改革は、不十分。高齢者の知識や技術が活かされていない」

 

 同時に、人生100年時代を見据えた働き方、生き方の意識改革も必要と説きます。

「高齢者の持つ知識や技術は、日本の財産です。例えば、母は、週に3日、簡単な清掃の仕事をしているだけかもしれない。ですが母の掃除の仕方は天下一品。私には、とてもまねができません。これは貴重な財産なのです。勤務時間が短い。あるいは、テレワークだから低賃金というのでは、真の働き方改革には、つながりません。高齢者の持つ経験という豊かな財産をいかに活かすかが、これからの日本にかかっているのです」

「介護に正解はない。だからこそ1つの選択肢を押し付けるのではなく、多様な選択肢の中から選べる社会をつくりたい」―そう信じて活動を続ける三原さんの戦いは、まだ道半ばです。

「がんになり、私の人生の第1幕は終わりました。生き残った自分には、大きな使命があると信じています。女性と子ども達、高齢者を守るという使命のためなら、私には怖いものは何もありません」

 

※あいらいふ2019年1月号を再掲載したものです。

2019.01 あいらいふ 掲載

取材: 横井かずえ / 撮影: 近藤豊

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